伊江島に上陸してから、反時計周りに島の半ばまで来た。主要な観光スポットの周辺は、大体が農地だ。サトウキビやタバコの葉が一面に広がっている。
島の東側は一通り見物してみたので(結構駆け足だったが)、今度は西側を目指すことにした。

島の西側は米軍施設で、路上にこんな標識が立っている。
最初は西端の灯台まで行こうと思ったのだが、運の悪いことに、伊江島補助飛行場に立ち寄った頃から、エンジンオイルの警告ランプはチカチカ光り始めたおかげで(2ストなので)、遠出する度胸が萎えてしまい、近くの補助飛行場を目指すことにした。
西へ向かっている途中で、壁一面に文字が書かれている古い小屋を見つけた。
何事かと近づいて見る。小屋の軒に「団結道場」と書かれている。


ここは米軍の土地接収に対して、1963年に「伊江島土地を守る会」が建設した施設だそうだ。現在は使われているかどうかわからないほど寂れているが、壁の文字だけが異様なほど新しい。きっと、当時の活動を風化させないために、定期的に塗りなおしているのだろう。事実、ネットで団結道場を調べていたとき、見つけた写真の一部では、壁の文字が読めないほど色あせているものもあった。

ちなみに、建物の向かいにはバス停があり、その名も「団結道場前」という。

少しだけ探し回ったが、なんとか飛行場を見つけて小休止。座席下に入れていたペットのお茶が、暖かくなっている。

中滑走路
伊江島補助飛行場とは、ごらんのとおりの滑走路だ。それしかない。当然ここにジャンボとかが降りられるわけではなく、ここから東に行ったところに、ちゃんと民間の飛行場がある(ここにもジャンボが降りられないが)。
伊江島には本来3本の滑走路があり、それらは島の西半分に集中している。
三本に東側の二本は、かつて旧日本陸軍が建設したもので、西側の滑走路は当時未完成だったようだ。それが、戦後米軍に接収された後、米軍が既存の二本を拡張し、西側の滑走路を完成させた。
一番東の滑走路は、現在「伊江島空港」として民間(といってもチャーター機のみ。定期便はない)で利用されており、中央の「中滑走路」は、米軍管理の施設ではあるが、事実上開放状態にあり、誰でも立ち入ることができるし、今では島の人たちの通り道になっている。実際私が休んでいる間も、車が数台土煙を上げながら通り過ぎていった。
そして、一番西の滑走路は、米軍施設内にある。
昔はここに戦闘機やなにやらが離着陸したのかと考えれば歴史の重みを感じずにはいられないが、今ではどこにもその面影はない。予備知識のない人がここを見れば、単なる手入れが疎かになった一般の道路にしか見えないだろう。
休憩も終え、次の目的地を選定する作業を始めた。といっても、悩むほどのことではない。大物の観光スポットが一つ抜けている。そう。さっきも書いたが、本島からも見えるあの有名な城山だ。
いくらバイクの機嫌が悪いからと行って、伊江島まで来て城山に登らないわけには行かない。僕はオイルの消費を抑えるべく、ゆっくりアクセルを調整しながら城山を目指した。
城山を目指す途中に、アーニーパイル碑というのを発見した。

ここは太平洋戦争中に米軍に従軍していた記者が、取材中に殉職した地のようで、一人のためにしては広めの敷地に芝生が敷き詰められ、その中央に白い記念碑が立っていた。記念碑のそばにはいきさつなどが書かれていて、私は路肩にバイクを止めてそれを読んでいると、そこから少し離れた場所に、こじんまりとした小屋が、道路わきに立っているのが目に入った。
近くまで行くと木製の小さな看板が立っていて「ninufa」と書かれている。
私は引き込まれるように小屋へ入っていくと、そこは小さな雑貨屋だった。
(詳細はこちらに書いているのでご参照のほど。あ、そんなに詳細じゃないですが。)
店の人と少し話して、「なんてうらやましい生活をしてるんだ」と嘆息しながら、再び城山を目指そうと思ったとたん、腹が鳴った。
時間は12時40分。そういえば、何も食べていない。
城山を目指しながらも、食堂を求めてきょろきょろしていると、一軒の沖縄そば屋に眼がいった。不覚にも店舗画像を失念したのだが、港からそのまま北へ続く道を進めば、左手に見えてくるはずだ。白っぽい二階建ての建物で、一階のひさしのような部分に、大きな黒い字で「すずらん食堂」と書かれている。

私はここで沖縄そばを食べた。単純にうまかった。沖縄そばが久しぶりで、食事自体も朝のA&W以来で、炎天下の中をバイクで走り回っていた事実を除外しても、沖縄の離島を感じさせる、はっきりとした味のそばだった。